望楼守の生思考Pathfinder

史上最高益!なんていう数年前の話が夢や幻だったみたいに最近はくら~いニュースが続いています。そんな中、多くの会社が巨大な赤字とそれに対するリストラなどの対策を発表しています。

そんなニュースに関連して、こんな話を耳にします。曰く、アメリカ企業は、株主の方ばかりみて経営を行っているのため短期志向で、すぐにリストラをする。あるいは、拝金主義で、企業の永続性や自分が去った後のことを軽視している、と。

もっとも、これは以前から言われていたことです。最近はさらに、こんな話が続くこともあります。

最近は、日本企業のアメリカ化が進んでいる。昔の経営者は苦しいときでも従業員をクビにせず、頑張ってきた。長期志向で人を大切にする、それが日本企業の強さの源泉だったのではないか。しかし、最近の経営者は短期の業績にとらわれて、すぐリストラなど安易な手段をとる。

最近の経営者はなっとらん、という主張です。下り坂の時代になると過去の栄光に目がいくのは人の性でしょうか。松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、立石一真などの戦後の日本復興の立役者ともいうべき名経営者の名前を最近よく雑誌などで目にします。
(まぁ、実際のところ、彼らの名前は経済が上り坂であれ下り坂であれ目にするのですが・・・)

 

さて、日本人だけでなく、アメリカ人の著名な経営学者もアメリカの経営者の近視眼を批判し、日本企業の長期視点を礼賛しています。しかし、長期志向は短期志向より優れた方策なのでしょうか。アメリカの経営者は株主が与える巨額の報酬に目がくらんだ結果、短期志向に走ったのでしょうか。この経済危機で短期志向になっている日本の経営者達の質は、かつてに比べ落ちてきているのでしょうか。

けれど、思うのです。

終身雇用、家族主義経営、長期志向経営、いや、それらに限らず、資本主義や民主主義などあらゆる制度やシステムなどは、普遍的なものでも絶対的な価値を持つものでもないのではないか、と。そのときの時代背景や状況に適応した結果生まれた偶然の産物に過ぎないのではないだろうか、と。もしそうであるとすれば、日本企業の長期志向は本当にかつての名経営者の優れた力の賜だったのだろうか。

日本が長期志向だったのは、経営者の志が高かった故ではなく、戦後のゼロからの出発という右肩上がりの安定成長という時代背景に支えられたものではないだろうか。アメリカという、追いかける相手、見本となる相手がいたからこそ、長い目で見れたのではないか。

逆に言えば、アメリカ企業が短期志向なのは、株主主義、拝金主義だからではなく、戦後世界で最も発展している故に、手本となるものがなにもないフロンティアに立つが故に、これから先の見通しを立てることが難しく、短期志向にならざるを得なかったという可能性はないだろうか?

そんなことを考えてしまいます。

そして今日、アメリカの巨大消費というポンプを原動力にした経済が機能しなくなった世界経済の中で、今後世界がどうなっていくのかは誰にも分かりません。また、世界第2位の経済大国である日本には、かつてとことなり、もはや手本となる国はありません。

日本企業が長期志向でいられなくなったのは、経営者の質の劣化でも日本企業のアメリカ化でもなく、環境の変化、長期志向が拠って立つところがなくなってしまった故なのかもしれません。

 

<追記という名の蛇足>

いうまでもないけれど、上述は主張の振り子を極端な方へ振った仮説です。ですから、補論、反論、異論など大歓迎です。(コメント・トラックバックあるいは右の「Contact」にあるメールフォームにて。)

今回の金融危機によって、今後世界がどうなるか分からなくなったと言うが、以前からずっと世界は乱気流の時代だった。1985年のプラザ合意に始まる急激な円高は、未曾有の出来事だったはずだ。けれども日本の輸出企業は、そんな環境下でも利益を出し、成長し続け、世界一のものづくり大国になった。それらの企業を率いた経営者達は、間違いなく不世出の名経営者であったと思います。本論では極端な主張をしたため、名前を出した人を含め戦後の日本を築いた名経営者達を評価しないような書き方をしてますけど、ぼくが豊かな国で生まれ育てたことに感謝していますし、尊敬の念をもっています。けど、現代だって、先の見えない中、必死になって道を切り開こうとしている経営者はたくさんいると思うんだ。

望楼守の生思考Pathfinder

ゲーテの「ファウスト」第2部の第5幕(最終幕)で望楼守リュンケウスは
ファウストの館の望楼で朗々と歌う。

Zum Sehen geboren
Zum Scauen bestellt
見るために生まれ
物見の役を仰せつけられ (高橋義孝訳)

20世紀を代表するThe Best & The Brightestのひとり、
故ピーター・ドラッカーはこの言葉を引用して
社会生態学者である自らをこの望楼守にたとえた。

社会生態学者は、変化してゆく社会の本質をつかみ、
まだ誰も気づいていない変化の兆しを見い出す者である。

彼によるとSocial Ecologist(社会生態学者)は、
社会を分析するのではなく、その在り様をただ観察するだけである。

部分をいくらあつめても全体にはなりえない。
だから、社会の一部分を切り取り分析するのではなく、
変化する社会を全体としてとらえるのだという。

分析は事象をフレームワークに沿って切り分け、不要なものを切り捨てる。
ある事象をふるいにかけ、相対的に大きいものを残し、小さいものを捨象する。

しかし、残ったものにその本質があるとは限らず、
捨て去ったものの中にこそその本質があるかもしれない。

まだ誰も知らない変化の兆しは、その時切り捨てられてしまう。
それゆえ、社会生態学者は、分析をするのではなく、観察をするのだろう。

Pathfinderとは、先の見えない時代において、
道なき道を自らの手で切り拓く者だ。

そのためには、Social Ecologistの眼で世界を見る必要がある。

望楼守の生思考Pathfinder

20世紀後半に起きたベルリンの壁崩壊、そしてソ連崩壊は、
人々に対立の時代の終わりと新たな世界秩序による平和を
もたらしたかにみえた。

しかし、中東での紛争やアフリカでの民族対立や虐殺といった悲劇を、
人類は20世紀のうちに終わらすことは出来なかった。

そして、新しい世紀、新しいミレニアムを迎えたばかりの2001年9月11日、
唯一のスーパーパワーとなったアメリカ合衆国の中枢をテロが襲った。

この出来事をはじめ、21世紀に入り約10年間の間に、ITバブルの崩壊、
エンロンやワールドコムといった巨大企業の倒産、金融工学の発達と
ヘッジファンドの台頭、そしてサブプライム問題とリーマン・ブラザース証券の
破綻をきっかけとした世界的な不況という様々な出来事を経験した。

21世紀は、これまでの常識が通用しない未知の世界だ。
何が起こるのか誰にも分からない。

そんな先の見えない時代において、お手本や答えはどこにもない。
道なき道を自らの手で切り拓いていかなくてはならない。

Pathfinderとは、そんな誰も正しい答えが分からない中で、
自分なりの世界観とファクトベースの分析、そして自らの直感によって
自分の進むべき道を見いだすことが出来る人間のことだ。