望楼守の生思考

いま、多くの企業がビジョンや理念を組織に浸透させようと取り組みを始めている。グローバル化やダイバーシティ、そして組織のメンバーの価値観の多様化は、組織としての共通認識を持ちにくくしているのかもしれない。

共通認識、ビジョン、理念、クレド、バリュー。

J&Jやリッツなどのすばらしい成功事例を取り扱った書籍は本屋に溢れている。また、社内のコミュニケーションを図るさまざまな手法も、コンサルティング会社によって開発されている。

しかしである。

社内のコミュニケーションを活性化させて、シェアード・ビジョン(バリューでもなんでもいい)を作り上げましょうという、動きに対して、少々ひっかかるものがる、というのが正直なところだ。

ミドルからの変革、ミドルアップダウン、個々人が組織のビジョン形成に貢献する。そういった考えはもっともだし、その前提となっている多様性や組織と個人の関係の変化、組織の境界のあいまい化などにも賛同できる。だが、そこから透けて見えてくるのは、リーダーシップを失ったトップの姿である。

「かつてのようなリーダーシップは機能しない」
「サーバントリーダーの時代だ」
「連帯から生まれるリーダーシップが求められている」

このような、リーダーシップを失ったトップを慰める言葉は溢れている。このような、リーダーシップの放棄を正当化する言葉が溢れている。しかし、本当にそうだろうか。多様性なんて言ったら、アメリカはずうっっっっっと前からダイバーシティマネジメントに溢れていた。

失われた10年と言われ、失われた15年と言われ、そして衰退国家とささやかれ始めた日本。その現実の前にはどのような言い訳も通用しないのではないだろうか。(そもそも言い訳がいいわけないのがトップでしょ?)

組織の問題の原因は最終的には、トップに帰する。あらゆる成熟企業は(そして成熟社会も)、スピードの欠如、新陳代謝の低下、官僚化、部門間の閉塞性などの病理に見舞われる。その結果、多くの企業は衰退し、新興企業がそれに取って代わる。

変革は容易ではないし、変革を行える人間は稀である。GEを変えたウェルチ、IBMを建て直したガースナー。そのような人間は稀だからこそ、変革リーダーによる変革はメシア待望論として退けられる。

しかし、変革は容易なことではなく、変革を行える人間は稀なのだ。そして、変わらないければ、神々の黄昏よろしく組織は消え去るしかない。(巨大企業であれば、その資産を食い潰すまでは生き永られるが。。)

多様性からの連帯。
これを生むのは、トップの力量しだい。

三枝匡が「経営パワーの危機」の中で、日本企業の経営者人材の枯渇、トップのリーダーシップの欠如に警鐘を鳴らして15年以上がたつ。しかし、多くの日本企業の多くは、未だ、その課題を克服できていない。